再び、出会いと始まり(No.2)

column-dawn-2
Pocket

今回は、小笠原ではなくインドネシアです。時は1980年、当時の日本タイマイ協会から依頼され、「マレーシア・シンガポール・インドネシアにおけるタイマイ資源の養殖可能性調査」というものに同行しました。ちょうどこの年、日本がワシントン条約に批准した年でした。今思うと、約1ヶ月間の超大名調査でした。ホテルは一流(今は安宿かテント)、食事も一流レストラン(今はほとんど屋台)、1か月の間に飛行機に18回(今は2か月いても10回も乗れず←日本とインドネシアの往復だけで4回、調査のほとんどは船)などなど、この時の一人分の予算は、今僕らが日本から2名、インドネシアから2名で行う調査費の2倍近くです。やはりバブル時代は恐ろしい。と、そんなことはどうでも良いことで、僕らはマレーシアの東海岸でオサガメを見て、ボルネオのサンダカンに飛び、それでアオウミガメを見て、シンガポールでタイマイの剥製を計測し、ジャカルタに入ったのです。その時既にスケジュールの半分は費やしていたと思うのですが、ジャカルタに降り立ち、市内に入ってみて、「うっ、この国なら住めるかも知れない。」と、突然降ってきたように、そんな感情が湧き出たのです。それから、15年もの月日を経て再びインドネシアに降り立ったとき、やはり何か懐かしい思いがこみ上げてきました。インドネシアと関わって既に9年目に突入します。この8年間で20回ほど日本とインドネシアを行ったり来たりしていますが、行くたびに心の古里に帰ってきたという思いがします。

続きを読む

1997年2月、日本ウミガメ協議会会長の亀崎さんと、1995年以来僕らの調査時にはいつも通訳をやってくれていたアキルさんの3人で、ブリトン島というところの調査をしていました。ある夜、安宿の蚊の多い部屋で、「スガさん、このままじゃあかんよ。インドネシアからタイマイがおらんくなるよ。」と亀崎氏(ちなみに関西弁)。確かに調査に行く先々で何十も、何百もタイマイやアオウミガメの産卵巣を見たのですが、この話があった時点では自然ふ化したものはたったの1巣しかなかったのです(1995年から1999年まで200以上の島を周り、5000巣以上の産卵巣を見たのですが、自然ふ化したものは3巣だけでした)。「やっぱしここでスガさんが会社でも作ってやらにゃ、どうしようもないんちゃう。」「カメちゃん、そんなこと言われても、僕にはどうしようもないよ。確かにべっ甲屋さんから頼まれて調査だけしていれば、今年はこれだけ、数年経てば、はい、いなくなりましたの報告だけで終わっちゃうけどね。」その言葉を怪しい目をしてアキルさんは横で聞いていたのです。その怪しい目は、妖しい光を伴い、フムフムとなにやら良からぬ事を考えているようでした。

日本に帰国し、4月のある日アキルさんから日本に電話がありました。「スガさん、会社、作りました。」「えっ???」「だからウミガメの会社を作りました。」「どうして?」「だって、カメちゃんがスガさんに作れって言ったでしょ。」「誰がやるの?」「スガさん!」こうして、アキルさんを代表に、インドネシアウミガメ研究センターは、何とも無茶苦茶な話のうちに設立されたのです。1997年4月18日でした。正式にはYayasan Alam Lestari – Pusat Penelitian Penyu Indonesiaと言って財団(Yayasan)の中に研究センターが組織の一部としてある形です。このAlam Lestariと言うのが「エバーラスティング・ネイチャー」と言う名の由来です。(「再び、出会いと始まり」了)

関連記事

  1. 自然保護ってなんだろう(No.24)
  2. ウミガメの仕事(No.35)
  3. column-dawn-9 怒り(No.9)
  4. column-dawn-7 死体(No.7)
  5. 近頃、思うこと(No.27)
  6. 海岸で思うこと、気づくこと(No.14)
  7. タイマイについて思うこと(No.12)
  8. 徒然なるままに(No.31)
PAGE TOP