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出会いと始まり (No.1)
ウミガメと関わって30年近くになろうとしています。僕が小笠原諸島父島に行ったのは昭和51年10月(1976年)でした。東京都の水産試験場である小笠原水産センターの倉田所長にウミガメをやらしてくれと直談判をしたのが、僕のウミガメ人生の始まりでした。何も後ろ盾もなく、倉田さんが新聞に出ていたことだけを頼りにいきなり目の前に現れた訳の分からない若造を、倉田さんは返事一つでウミガメの研修生として受け入れてくれたのです。翌年2月19日に竹芝桟橋から再び「父島丸」に乗船し、36時間かけて、倉田さんの「来ても良いよ。」という返事だけを頼りに父島に住み着くことになったのです。
小笠原は、1830年まで無人島でした。そこに父島を第二のハワイとして捕鯨基地にするために、ハワイのカナカ族を従え欧米系の人たちが約30名住み着いたのですが、皮肉なことにアメリカ東部で石油が発見され、灯油などに使われていたマッコウクジラの鯨油は必要なくなり、小笠原に移住した人々は忘れ去られてしまったのです。明治9年(1876年)になり、」すったもんだの末に小笠原諸島は日本領土となり、日本政府は八丈島を中心とした人々を小笠原に移民させます。しかし産業のない小笠原で人々は生活できるはずもなく、政府はすぐできる産業として桑の木の伐採とウミガメ漁を奨励させることになったのです。
続きを読む返還と同時に倉田さんは小笠原に渡り、ウミガメの人工ふ化事業を再開するために奔走し、小笠原水産センターを設立したのです。その結果、昭和46年に試験的なふ化放流事業が再開されました。僕が小笠原に渡ったのは再開されたその事業の6年目のことでした。僕の行き先を決定的なものにする人物とそこで出会います。あの150年前に忘れ去られた人々の血を引く木村ジョンソンさんです。彼は、水産センターの運転職で現地採用されていたのですが、小笠原の海に関して、現場の事に関して彼の右に出るものはなく、僕にとって倉田さんは良いボスであり、ジョンソンは当時から「さんづけ」しなくても良いほど毎日酒を飲み交わし、ウミガメを、人生を、若さを語り合うほど僕にとって良い兄貴分であったわけです。生物的な知識も、海に関する知識も全くない若造がそんな中に入れたのは、この二人の存在だったのです。小笠原での最初の仕事は出刃包丁を持ち、ジョンソンの指導の元に毎日数百匹の魚を三枚に下ろし、細かく切ってウミガメの餌を作ることでした。魚おろし→餌やり→水槽掃除、これが僕の毎日の仕事でした。こうして、僕のウミガメ人生は始まったのです。(「出会いと始まり」了)