自然保護ってなんだろう(No.24)

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最近、ますます不可解になってきたことがある。それは「自然保護」という言葉である。かつて僕は極力その言葉を使わないようにしてきた。なぜかというと、日本では自然保護という言葉は、個々の生物の生命を大切にする、ボランティア活動の一環として当該生物を守る活動そのもの、生物が生息する環境を守る、その景観を守るなどを指していると思っていたからである。その中には多分にその生物が愛らしいという感情が入っている。僕が行っているウミガメの活動は、上記に関して重なる部分が全くない。ウミガメの資源を回復・維持することは、僕にとっては仕事である。僕の中ではビジネスの範疇からはみ出ていない。ある生物を種として絶滅させないためには、感情的な保護論やボランティア活動では対応できない、少なくともウミガメに関しては自信を持ってそう言える。それに、海外では「自然保護(Conservation)」は科学的な位置づけさえされていないので、僕が行っているウミガメの仕事は学問的な位置づけさえないのである。

海外においても、日本的な自然保護観と共通している部分があるようだ。自然保護というのはその生物を絶滅から遠ざけ、その生物が生息する環境を保全することではないのだろうか。生物の多様性を保っている(ように見える)、生物間のバランスを究明することではないのか。もしそうであるなら、今言われている「自然保護」というのはいったい何なのだろう。単なる一方的に人の感情を満足させる行為だけなのだろうか。当該生物は種として、どうなってもかまわないのであろうか。僕がそう考えるのは、主体となる生物をピックアップしてその生物や生物が生息する環境を守ろうとする人たちは大勢いるが、その種に関して学問的に自分が勉強し、その種が生息する地域の人々と共に自分の人生をかけて、もしくはそういう環境の中で活路を見出し、その生物を守るために活動している人が見えてこない。極端なことを言うと、海岸に打ち上げられた鯨類を海に戻すために浜に駆けつける人々は大勢いるが、その後打ち上げられた鯨類を追跡したり、その資源量を把握したりする人はいない。そういう目で見てしまうと、行為そのものを否定するということではなく、個々の人にとって、鯨類を海に戻すという行為は、すごく個人的なものなのかと思ってしまう。たぶん、人の人生の中でもこのような活動に接することができるのはほんの数回しかないだろうし、そうなると「クジラの保護=自然保護」という、言葉の意味はいったいどこに行ってしまうのだろうか。確かに「自然保護」は、一部の人たちだけの特権ではないし、とても幅の広い意味を持つ言葉だと思うが、僕には実感としてそれが見えてこない。ますます混沌とした世界に入り込んでしまう。

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