海岸で思うこと、気づくこと(No.14)

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今年9月から10月にかけて2週間ほどELNA の職員の鳴島と小笠原へ行った。父島に着いた次の日からさっそく調査だ。この時期、小笠原ではアオウミガメの産卵も終わり、半数以上の産卵巣から稚ガメたちが旅立っている。父島列島にある35カ所ほどの海岸にボートで上陸し、ふ化後の産卵巣を掘り起こし、ふ化殻やふ化しなかった卵を割ってふ化率やふ化状況を調査した。小笠原の海は過ぎ去った台風の影響でまだ荒れている。小笠原海洋センターと協働で行った調査であった。海洋センターでは続けさまに来る台風の影響で1ヶ月以上調査ができない状況で、ふ化率調査も3分の1くらいしか進んでおらず、新しい産卵巣もまだまだかなりあることが予測された。あった。産卵数はこれまで記録したことのない1200巣に達しようとしている。僕が30年前に小笠原にいた頃はせいぜい100巣から150巣であった。海洋センターにはアルバイトやボランティアの人たちが7名いた。とにかく人海戦術である。産卵時に計測した産卵巣の位置を計測し直し鉄筋の棒でふ化後の卵を探り当てる。産卵巣を計る人、掘る人、殻を調べる人、産卵時に発見できなかった産卵巣をふ化跡や古い産卵巣の盛り上がりをみて卵を探す人、絨毯爆撃のようにひとつひとつの海岸の端からきれいにローラー作戦を進めていく。僕は「殻を調べる人」と「発見できなかった卵を探す人」をやった。朝から夕方まで「掘る人」はただひたすら産卵巣を掘るだけである。6日間で150巣ほどの新しい産卵巣を発見し、600巣ほどのふ化後の卵を調査することができた。

途中母島列島の調査も行った。父島を朝5時半に出発し母島に7時過ぎに到着する。あいにく台風のうねりが残っており、最初調査をしようとした大崩海岸の調査ができず平島に向かう。母島では毎日朝4時半起き、日の出と共に穴掘りの開始、日没と共に帰港、これの繰り返しが続く。母島列島では4日間で600巣の古い産卵巣の発見と470巣の産卵巣を掘り出し調査することができた。調査の終わる頃はボランティアたちの手はボロボロになり、爪は数ミリ指の中に食い込む。穴を掘りながら穴の中に手を突っ込んだまま鼾をかき爆睡するボランティアもいた。母島の観光地として抜きんでたスポットである平島は、明るい透明感のある美しい海を背景にしているが、それが不似合いなほど穴を掘る人たちは誰も無口だ。僕はひたすら卵を探す。平島では多いときには1時間に40巣のペースで卵を探し当てていた。頭の中はビリビリと肌を焼くような太陽光線の中で朦朧とし、意識は遠ざかり、鉄筋の棒が勝手に地面を刺し、卵の場所を探し当てていく。何度か倒れそうになる。鉄筋の棒はスッート砂の中に吸い込まれ、ブレーキのかかったように止まる。ここには卵はない。卵のある場所はブレーキが掛かり止まる寸前で急にブレーキが利かなくなったようになりスット鉄筋の棒が入っていく。多いところは3-40cmごとにスット入る。

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自分自身の存在感がなくなる。卵を探す機械になっている。何をやっているのだろうか、この切りがない卵探しはいったい何なのか、僕は卵を探して何をやろうとしているのか、いろいろな疑問がわいてくる。所詮ウミガメ?これまで30年間ウミガメをやっていて、このような違った形で卵探しをするのは初めてだった。小笠原にいた頃は週に1-2回全部の産卵巣を回っていたので、産卵巣の形を見ながら、足跡を見ながら、卵を探していた。平島で何かこれまでとは全く違う自分がいることに気づきだしていた。僕がやろうとしていることは、結局は学問的なことでなく、保護でもなく、卵を探すという一点で職人的な達成でしかない。でも、この観点から調査というものを振り返ると全くこれまでとは違う調査という形が見えてくる。こんな調査の仕方もあるという事実に自分自身が一番驚いている。これはある意味ふ化率調査にも言えることだが、未だに未発生の卵の判定に悩んでいる。内部が薄汚れた殻や食害痕のある殻が何なのか悩んでいる。その時ふと、ちゃんと手順を踏んでやればそれでよいのかもしれないと言う簡単明瞭な答えが出てくる。理由はまだ分からないが、徹底的に同じ理由で死んだと思われる卵をただひたすら百個、二百個と中を見続ける。そうすることによって明らかな違いが出てくる。これまでは一個一個の卵を前に悩んでいた。しかし、全体でものを見ることにより、要は違った角度でものを見ることにより、問題が一気に解決される。誰もができ、誰もが当たり前にしていることを、見過ごしていることになかなか気づかない。ただ、卵探しもそうだけど、この方向で進んでいくと神懸かりになってくる。自分だけの感覚しかとぎすまされなくなっていく。これは絶対に避けなければいけない。平島ではその寸前でとどまることができたと思う。自分たちが目指すべき方向を見失ってはならないのだ。僕には自分がこれまで得たものを後の人に伝えていくという責任があると思っている。僕らの基本は現場からの発想と現場からの情報の発信である。それがELNAを支えている精神であると今更ながら気づくのである。(「海岸で思うこと、気づくこと」了)

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